最後にこれだけは言わせて欲しい

ダラダラ出来なくなった金融マンの遺言

余白

李禹煥展が非常に良かったという話。

 

国立新美術館李禹煥展が開催されている。

国立新美術館開館15周年記念 李禹煥|企画展|展覧会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO

 

 

随分前に直島に行ったことがあり、李禹煥美術館を訪れた際の絵画作品の記憶が強く残っていたためフラフラと訪れてみた。

李禹煥美術館 | アート・建築をみる | ベネッセアートサイト直島

李禹煥はモノ派の活動において中心的な役割を担ってきた芸術家である(らしい。今回初めてちゃんと知った)。

 

彼の作品には、原材料をそのまま配置したような「関係項」のシリーズと筆により少数のタッチで線または点を描いた「点より」「線より」シリーズがある。

『点より』

出所:李禹煥展HP

 

特に、李は空間と物との関係性や描かれた部分と余白との関係性を重視しており、置かれた物やキャンパスの中の筆のタッチと、何も存在しない余白との関係性についてしばしば言及される。

私が李禹煥美術館を訪れて以来特に気に入っていたのは絵画作品のほう。

李の絵画作品は、初期の作品こそキャンパスいっぱいの点が描かれていたりダイナミックな動きがあったりもするが、時代を経るごとにその数も動きも少なくなっていき、最近の作品では点一つだけといったものが多い。にも関わらず、その一筆と余白がせめぎ合うような強い力のようなものを感じるのだから不思議なものである。

物事はそれそのものとしてのみで独立して存在するのではなく、常に外界にも何らかの影響を与えながら存在しているという思想には、何とも言えないなじみ深さのようなものがある。李が日本で哲学を学んでいたという背景に鑑みると、我々自身が自然と身に着けている東洋的な思想の一端なのかもしれない。

 

ところで、日常の生活を送る中で「余白」に注意を向けることがどの程度あるだろうか。

PPTで作成した資料に無駄な余白があるとそれは作成途中かいまいちな出来の資料だし、時間の余白は何か予定で埋めたくなる。余白は、通常無駄なものであり不要なものである。だが、李の作品では、余白があるからこそ李の作為が際立ち、その意味を表出している。余白は無意味なものではなく、対比の関係性において重要な意味を持つ。

事象の区別は特徴の差異によるが、彫刻や絵画はまさに抽象化された記号でありそういった観点で見ると、余白は記号表現を際立たせる差異を表出していると言えるかもしれない。

 

なお、本展覧会のオーディオガイドは中谷美紀が担当している。李の作品は極端に作者としての作為が削られているため、その意味を理解する上ではオーディオガイドを聞くのが有用だと思われる。無料*1なので、ぜひ聞いてみてもらいたい。

 

 

 

*1:スマホで聞く形式なので、イヤホンを持っているほうが良い

文才について

人を魅了する文章を書く才能というのはほんとうに羨ましい。

 

小学生の頃から本を読むのが好きで、結果として自分でも何か文章を書いてみたいと思うようになった。

自由課題のようなもので小説紛いのものを書いた記憶があるし、大学時代の暇を持て余した時期には、真剣に小説の書き方と言った本を読んで学ぼうとした記憶もある。

ただ、結局どれも中途半端に終わってる訳で、文章を書くという行動の中で継続できているのはせいぜいこのブログとTwitter程度である。

 

なんの訓練もなく自由に文章を書くというのはただ文字量を書くだけでも相応に才能が必要な世界ではないかと思う。Twitterで140字を書き切るのだって結構苦労するぐらいだし、それを原稿用紙何枚分も、それも自分の作った設定で、人を引き込む文章で構築するというのは途方もないことのように今では感じる。

 

最近は手持ち無沙汰な時にTwitterを巡回する癖がついているが、ここ1年ほどでいわゆる「Twitter文学」と言える連続投稿の文章が増えた。

人混みのように目まぐるしく流れてゆくタイムラインの中で、最初の140字の投稿で人を惹きつけ物語を完結させるというのはまさに文才のなせる技だろう。

 

人は言語を介して意思疎通を図る生き物である。翻って、言語以外で伝達できる情報量は限られている。故に、この言語能力の良し悪しはただ「話が上手い」と言った長所のレベルにとどまらず、あらゆる社会行動の優劣に影響を及ぼしうる。

どれだけ優秀で頭が良くても、それを他者に伝達できなければ評価はされ得ない。

逆に、引き込まれる文章を書く人というのはそれだけで魅力的な人物であるように見えるし、その人の人柄や能力を背景に感じるものだ。

 

そういった点では、文章は才能でもあり人格でもある。