最後にこれだけは言わせて欲しい

ダラダラ出来なくなった金融マンの遺言

文才について

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人を魅了する文章を書く才能というのはほんとうに羨ましい。

 

小学生の頃から本を読むのが好きで、結果として自分でも何か文章を書いてみたいと思うようになった。

自由課題のようなもので小説紛いのものを書いた記憶があるし、大学時代の暇を持て余した時期には、真剣に小説の書き方と言った本を読んで学ぼうとした記憶もある。

ただ、結局どれも中途半端に終わってる訳で、文章を書くという行動の中で継続できているのはせいぜいこのブログとTwitter程度である。

 

なんの訓練もなく自由に文章を書くというのはただ文字量を書くだけでも相応に才能が必要な世界ではないかと思う。Twitterで140字を書き切るのだって結構苦労するぐらいだし、それを原稿用紙何枚分も、それも自分の作った設定で、人を引き込む文章で構築するというのは途方もないことのように今では感じる。

 

最近は手持ち無沙汰な時にTwitterを巡回する癖がついているが、ここ1年ほどでいわゆる「Twitter文学」と言える連続投稿の文章が増えた。

人混みのように目まぐるしく流れてゆくタイムラインの中で、最初の140字の投稿で人を惹きつけ物語を完結させるというのはまさに文才のなせる技だろう。

 

人は言語を介して意思疎通を図る生き物である。翻って、言語以外で伝達できる情報量は限られている。故に、この言語能力の良し悪しはただ「話が上手い」と言った長所のレベルにとどまらず、あらゆる社会行動の優劣に影響を及ぼしうる。

どれだけ優秀で頭が良くても、それを他者に伝達できなければ評価はされ得ない。

逆に、引き込まれる文章を書く人というのはそれだけで魅力的な人物であるように見えるし、その人の人柄や能力を背景に感じるものだ。

 

そういった点では、文章は才能でもあり人格でもある。